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La hauteur chante ce qu'on parle dans la profondeur

メモとしてのブログ。ルーマニアの詩人たちに関心があります。

メショニック「隠喩の組織」(『詩のために』Pour la poésie所収)

メショニックに関するメモ。レヴィナスも重要だが、もうひとりの偉大なユダヤ思想家を見逃してはならない。

 

イメージの曖昧さ

あるときにはあらゆる類推関係を意味する一般的用語であり、あるときには直喩ではなく狭い意味でのメタフォールの同義語であったりする。

イメージが心理学的なもの、特に視覚的なものに傾き過ぎているという批判はある。

 

「詩人に余りにも安易に適用される<幻視者>という呼称に対して私は既に反対の意を表明しておいた。偉大なる詩人たちは<耳の人間>であり<眼の人間>ではなかった。彼らにあっては幻視とか<照明>とかの経験は、いずれにしろ、事の原因ではなく結果なのだ。」(ブルトン

 

「イメージというのは、10年前には普通そう考えられていたように、滑稽な動物名等々……によって描かれる日常の事物というだけではなくて、否定とか、分離とか、個別に代わる一般とか、その他諸々の、そのつど新しく考え出される、観念了解のための統辞的形態でもある。」(アラゴン『文体論』)

 

 

イメージからフィギュールへ

フィギュール ;「比喩的(tropologique)空間」(フーコー『レーモンルーセル』);言語行為全体の中での語群のローテーション。

 

その他メモ

ヤコブソン(「言語行為の二つの局面と失語症の二つのタイプ」第5章 )批判

「ロマン派および象徴派における隠喩的手法の優位性」を強調し、「類似の原理が詩を支配している」ことを主張するヤコブソンの古典的研究。

<メタフォール=詩>の同一視;<小説=メトノミー>(写実主義)のように。

 

ジェラールジュネット「フィギュール」への言及からブルトン、エリュアールらへ

『フィギュール』内で分析されている唯一の対象=バロック詩;形式化され形式化されうる詩→ブルトン、エリュアールへの言及、そしてラマルティーヌとの比較。

 

 「言語による経験は、かつてユゴーが言ったように、もし「言葉が物である」のなら、世界に対して作用することができる。ポーランによれば「搦め手(からめて)」からしか考えられないものを、ブルトンはここで、言葉によって、それも形を持つ言葉によってではなく、形なきものの作り手である言葉によって、さらに先に押し進めているだけだ。」

 

「言葉の秩序を乱し、それによって事物の全くの見せかけの存在を脅かすことを何が私にやめされることができようか! 言葉はその奴隷状態から引き離されうるし、引き離さなければならない。現実そのままの描写も、風俗の研究ももはや無用だ。沈黙のみ、何人もかつて通過したことのない場所を私が通り過ぎるために、沈黙のみ!」(ブルトン『現実僅少論序説』)

 

「人が欲するものを見ることができるのは目を閉じた時だけだ。全ては声に出して表現可能だ。」(エリュアール, Donner à voir )

 

アラゴンロートレアモンとわれわれ」

「『詩集』も『マルドロールの歌』もいまだひとつの言語による行為だとは考えられず、真情の叫びだと考えらえる」

 

ヴェルディにおける comme (直喩の接続詞)は創造の欠如の徴 発言について

「イメージは精神の純粋創造物だ。それは直喩からは生まれない。それは多かれ少なかれ遠く隔ったふたつの現実を近づけるところに生まれる。……このようにして呼び起こされる感動は、詩的に言って、純粋である。何故なら、その感動は、あらゆる模倣、あらゆる(現実の)喚起、あらゆる比較の外に、生まれたものであるから。」(「イメージ」,『大部分の時』, 1918)

 

マルセル・クレッソ『文体とその技法』

「作品測定の標準点となる事物の選択を体系的に研究すること」を推奨。一方で「イメージは物の中に存在するのではない」「イメージは一つのオーケストレーション」、一種の管弦楽的全体化である以上、文体論はこのような分類目録をほとんど得ることがないことを彼は認めていた。

 

ウルマン『フランス語意味論』

イメージという現象のなかに、二次的共感覚の構造(起感覚ー終感覚)を識別し、それによって各種イメージ間の階層秩序を発見する。→「どれほど奇異なものであっても隠喩は要素に分解できる」

 

エリュアールとツァラの比較

「イメージとは孤立することによってそれ自身ひとつの詩篇になろうとする。少なくともふたつの項がともにその詩篇のすべての要素にに同じように緊密に絡みつくのでない限りは。ひとつのイメージは多くの項から成っていることもありうるし、一篇の詩全体、それも長い詩の全編であることだってある。そうするとそのイメージは現実の必然性に従属し、時間と空間の中を動いてゆき、恒常的なひとつの雰囲気、持続的なひとつの行為をつくりだす」(エリュアール, Donner a voir)

 

「詩それ自体の外においては、エリュアールのイメージはそれ固有の価値をもたない。それらのイメージは、言説の展開の中で、詩篇全体に定められた必然性によって、生み出されてくるものなのだ。これらのイメージは、詩の全体がそうであるより広大なイメージを完成するための、通過点、移行的話題にすぎない。」(ツァラ「ポールエリュアールと親和的イメージ」, 1955 )